公益社団法人 日本精神神経学会

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テーマ2: 旧病名の弊害と新病名「統合失調症」の意義

更新日時:2015年1月28日

監修: 日本精神神経学会 前理事長
東北福祉大学大学院精神医学教授 佐藤 光源

[テーマ2] 旧病名の弊害と新病名「統合失調症」の意義

医療法人社団ウエノ診療所
高木 俊介

なぜ病名変更なのか

今回新たに「統合失調症」と訳されることになったschizophreniaという病気は、これまでは「精神分裂病」と呼ばれてきました。もし、皆さんが精神医学の知識があまりない立場にいたとしたら、「精神分裂病」という文字を目にして、あるいはこの病名を聞いて、どのような病気をイメージするでしょうか。人間が社会で一緒に暮らしていくために必要な「精神」が、「分裂」してしまっている病気……やることなすことがバラバラで、とても一緒に暮らしたりできない「怖そう」な病気、と感じてしまうのではないでしょうか。  もちろん、皆さんはすでに医学・看護学・福祉学等々を身につけておられるでしょうから、病名というのは単なる記号にすぎない、この病気には幻覚や妄想があって、等々と説明することができるでしょう。しかし結局、「この病気は精神が分裂していて、わけが分からないことを言ったりしたりする」と、どこかで納得してしまうのではないでしょうか。目の前では普通に見える患者さんに対しても、ついこのように納得してしまうのは、病気の実際の姿以上に、病名が持つ力によるところが大きいのです。私たちは、病名を単なる記号としてだけではなく、内容を手短に表わしたシンボルとして受けとっています。そして、その病名が持つイメージを通して、目の前の病気を見てしまいます。言葉の力とは、そういうものです。ですから一般の人たちよりずっと知識を持っている医療関係者ですら、「精神分裂病」という病名を見ただけで、予断を持って患者さんに接してしまいがちです。  病気に対して客観的になることを職業柄身につけている私たちですらそうなのですから、「精神分裂病」と診断され、その名前を告げられた患者さん自身や、その家族の混乱と絶望の気持ちはどのようなものでしょうか。今ある症状ですら大変な苦しみを強いられるものなのに、その病名までが追い打ちをかけるようにのしかかってきて、その人の人格を否定し、尊厳を奪おうとしています。  この病名をなんとかしたいという気持ちは、患者さんや家族の当事者ならびに一部の精神科医療関係者の間にしだいに広まってきつつありました。1993年に、「全国精神障害者家族連合会」が日本精神神経学会に対して、病名変更を検討してほしいとの要望書を出しました。この要望は、病名変更が単なる名称の問題ではなく、精神障害に対する差別と偏見をなくしていく活動の一環であるということを、はっきりと述べたものでした。  今回の病名変更は、この要望を受けた学会が10年近くに及ぶ議論を重ねてきた結果、ようやく実ったものです。「統合失調症」という新たな病名が浸透していくためには、この病名のほうが、社会・医療・当事者にとって適切で好ましいものであるということが、多くの人々に受け入れられることが必要です。  この項では、なぜ「精神分裂病」という従来の病名が捨てられねばならず、新しい病名「統合失調症」が適切なものなのかを説明したいと思います。この理由を、一人ひとりの医療従事者に納得していただくことが、精神障害に対する差別や偏見をなくしていくという、病名変更の最初の目標につながるのです。

「精神分裂病」という病名の不適切さ

 では、なぜ「精神分裂病」という病名が、不適切で侵襲的なのでしょうか。これに対しては、当事者への配慮を含む社会的理由と、この病気の実態をどう表現するのがよいのかという医学的理由があります。医学的理由については、テーマ3でとりあげられますので、ここでは主に社会的理由を述べておきましょう。

 まず第一に、「精神分裂病」という日本語の病名が定められた70年も昔と、現在の精神科医療の違いがあります。当時は、統合失調症の方でも病気として扱われて病院にやってくる患者さんは、非常に重症の方々だけでした。しかも、病院に来たとしても、当時の精神科医療には治療と言えるほどのものは何もない状態でした。ですから、統合失調症の患者さんたちは、自然に落ち着いて家庭で介護できるようになるまで、病院に収容されるしかなかったのです。しかし、落ち着くまでの長い時間の間に、引き取る家族は亡くなり、一生を病院で過ごすことが稀ではありませんでした。
そのような背景のなかで、精神科医療従事者は、統合失調症の治療についてどんどんと悲観的になっていきました。医療従事者が抱く悲観的な考えは、やがて社会にも浸透していき、「精神分裂病」は不治の悲惨な病気というイメージが作られていきました。
しかし、社会に出て生活したいと望む患者さんや、その声に応えようとしてきた彼らの家族や医療従事者の努力によって、少しずつではありますが、病院もそれまでの長期入院を強いてきた治療法を反省し、患者さんが地域で暮らしていくことを援助するように変わってきました。そして、薬物療法を始めとする治療の進歩も加わって、病気をコントロールしながら地域で生活する患者さんが増えてきました。最近では、統合失調症の病気で悩む人たちのなかにも、病気を抱えながらも社会生活を営んでいる方や、ごく平凡な普通の人生をまっとうされる方も多いことが知られるようになりました。
こうして患者さんをめぐる状況が大きく変化しているのに、病気の名前が不治の悲惨な病気であると考えられていた時代のままであっては、当事者にとって何らかの利益があるはずがありません。もし今、schizophrenia という病名を初めて翻訳しなければならないという場面を想像してみれば、果たして「精神分裂病」という翻訳が行われるでしょうか。
第二に、病気の治療に対しても情報開示が必要とされるようになった時代の変化があります。インフォームド・コンセントという言葉が示すように、医療における患者―治療者関係は、対等のパートナーとみなされるようになりました。これからの時代の医療は、患者さん本人が自己決定権を持って、主体的に治療に参加していくことが基本となりつつあります。
もちろん精神障害の場合は、病気の激しい時には、情報を正しく理解して自分を守るための選択をするという能力が低下している場合があります。しかし、多くの場合、病気が落ち着き、安心できる治療環境と十分な時間が保証されれば、普通の人と変わりなく現実的な判断を下せることがほとんどなのです。
しかし、そのためには、病気についての正しい知識や治療の方向や今後の予想される出来事について、治療者は患者さんのその時々の状態に合わせながら、上手に情報を伝えることが必要です。そのなかには当然、病名も含まれます。ところが、多くの医師が、「精神分裂病」という病名が持っていた人格全体を否定するような運命的な響きのために、患者さん本人に病名を伝えるのに躊躇を感じています。このことは、治療の内容や社会的な支援について、患者さんが自分で情報を集めたり考えたりすることができない状態に放っておかれているということです。
第三に、これからの時代の福祉は、どのような障害を抱えている人も、この社会に暮らす限り社会的な権利が平等に保証され、自分らしい生活を送るための援助が得られることが目指されています。これを、ノーマライゼーションと呼んでいます。もちろん、これらの実現には多くの障壁が立ちはだかっていますが、理想として目指すべき方向とされなくてはなりません。精神障害者の福祉も、この例外ではありません。
しかし、一般の人たちが「精神分裂病」という病名を通じて感じるのは、人間性の全体がバラバラになっていて何をするか分からない恐ろしい病気であるというイメージでしかありません。精神障害者が社会のなかで当たり前の生活を求めようとしても、このようなイメージを持つ「精神分裂病」という病名が社会の差別や偏見を助長し、精神障害者やその家族を暮らしづらくさせています。
もちろん、病名の問題は、社会的な差別や偏見を生んでいる原因のうちの、ほんのわずかなものにすぎません。しかし、どんな病気であれすっかり医師に任せて病人は何も知らなくてよい、精神病は社会から隔離しておけばよいという時代に作られた「精神分裂病」という病名を、当事者の苦痛を無視してそのままにしておいてよいという理由は、何もないでしょう。病名の変更は、このような時代は終わるべきだということ、終わらせなければならないという願いの象徴なのです。

「統合失調症」に込められた意味

 では、「統合失調症」という新しい病名は、患者さんと家族、そして社会に対して何を伝えることができるでしょうか。
 以前の病名である「分裂」という言葉からは、私たちの心は「統一」されていることが当たり前で、それができていないのはおかしいのだという感じがしてしまいます。しかし実は、私たちは普段どんな時でも心のうちは混沌としていて、さまざまな外界の刺激を受けたり雑念が浮かんだりしていて、まさに常に分裂状態にあります。このようななかから、うまく刺激をより分けたり雑念をやりすごしたりして、なんとか目の前のことがこなせる状態に保たれているのです。つまり私たちは常にかなりのエネルギーをさいて、思考や行動を必要なひとつの方向に「統合」しているのです。
 このような「統合」の機能が何かの拍子に不調をきたすと、余分な刺激にさらされた神経に対して幻覚が起こったり、疲労した思考はそれに対して批判的になれなくて現実感覚を失うということが起こります。このようなことは、たとえば雪山で遭難して体力気力とも限界に達した時には、誰にでも起こりえることです。「統合失調症」の方は、いわば「人間関係で遭難しやすい」方たちと言えるかもしれません。
 さらに、「失調」という言葉には、このように統合がうまくいかなくなった状態が、一時的なものであり、回復可能なものであるという意味があります。「調子」は「出たり」「出なかったり」具合が微妙に変化するのであって、体や神経そのものが壊れているということではありません。「統合失調」には、「精神分裂」という言葉が持っていた、取り返しのつかない崩壊であるというイメージはありません。
 つまり、「統合失調」という病名が意味していることは、大変な症状と思われている幻覚や妄想のような症状も、健康な時にはそれを防いでいる「心(脳)の統合機能」が疲労して不調をきたした、回復可能な状態であるということなのです。
 最後に、最近の研究では、この病気はひとつの原因から起こるひとつの病気であるという考え方に対して疑問が持たれています。そのために、ひとつの病気というイメージの強い「病」ではなく、いろいろな原因から起こるいろいろな状態の集まりであるという意味の「症」という言葉が使われています。このような考え方の根本的な変化は、患者さんそれぞれの病気のありようを先入観にとらわれずにじっくり診ていくという、私たちの態度の変化を引き起こすでしょう。

当事者参加の医療に向けて

もちろん、病名が変わったからといって、病気の苦しみがなくなるわけではありませんし、精神障害に対する偏見や差別がなくなるわけではありません。また、病名や病気の知識を患者さん本人に伝えるという、インフォームド・コンセントの実践が簡単なものになるわけでもありません。どのような病気であれ、病名告知には細心の注意と思いやりが必要です。
 しかしそれでも、今回の病名変更は当事者が医療に参加するという、これからの医療が歩むべき方向の象徴です。ここに述べた「統合失調症」の考え方、説明の仕方は、今後、医療従事者が当事者とともに考えていくための、最初の手がかりにすぎません。新しい言葉に新しい意味を込めていくためには、私たちの日々の診療が、患者さんたち当事者に対して開かれたものであることが大切です。

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