公益社団法人 日本精神神経学会

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[資料]相馬事件について

更新日時:2015年1月28日

「相馬事件」とは

 旧中村藩(現・福島県)主 相馬誠胤は、24歳で緊張病型分裂病とおもわれる精神変調にかかり、自宅に監禁されたり東京府癲狂院に入院したりし、1892年(明治25)白宅で糖尿病で死去した。 1883年ごろから、錦織剛清ら旧藩士の一部は、殿様の病気とは御家の財産をのっとろうとする陰謀だとして訴えを起こしていた。 1887年(明治20)には、錦織は東京府癩狂院から相馬を脱走させた(巻頭図iii頁)。 相馬の死後1年して錦織は、殿様の死は毒殺だと告訴し、相馬家側の何人かと主治医中井常次郎(前東京府癲狂院長)とが拘留された。 中井は"毒医"として有名になった。 また家令であった志賀直道(作家・志賀直哉の祖父)も、陰謀の中心人物として拘留された。 墓を掘り返し死体を調べたが、毒殺の証拠はなくて中井らは免訴となり、錦織が誣告(虚偽申告)で有罪となった。 錦織に組みしていた後藤新平は、1893年(明治26)当時内務省衛生局長であったが、この事件に連座して局長を止めることになり、無罪となったのちは政治家に転進した。 万朝報はじめ当時の新聞はほとんどが錦織を支持していた。 この事件は外国にも、日本では精神病患者は無保護の状態にあるとして報道された。

相錦後日話 東京巣鴨癲狂院より主君を負ふて走る(小國政画、1892年)

相錦後日話 東京巣鴨癲狂院より主君を負ふて走る(小國政画、1892年) ”忠臣”錦織剛清が旧主君・相馬誠胤を1887年(明治20)1月31日、東京府癲狂院(のち東京府巣鴨病院)から連れ出すところ。1892年(明治25年)は、相馬事件がとくに騒がれた時である。

1892年、93年にこの事件を報じた本は40冊を越えるだろう。それもほとんどが錦織側に立つものであった(図で右側の山。相馬家側のものは左の3冊だけ)。"忠臣"錦織の肖像は新聞錦織にもなった。錦織が自分の主張をつづった『神も仏もなき闇の世の中』は1892年10月第1版、1893年末には20版近くに達した。

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