公益社団法人 日本精神神経学会

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歩み8:国内の精神保健運動とその後

更新日時:2015年1月28日

国内の精神保健運動とその後

 国際的精神保健運動に前後して、国内では1919年(大正8)に精神病院法が公布され、ついで1920年には日本精神病医協会(会長は呉秀三)が発足した。 1925年、三宅 鑛一(写真(1))が呉秀三のあとを受けて東京帝国大学教授に就任し、彼はその後幾多の優秀な精神科医を育成した。 1926年(大正15)、三宅 鑛一を会長として日本精神衛生協会が活動をはじめた。同協会は、正式には1931年(昭和6)に発会式が行われた。 1927年(昭和2)精神衛生学会から雑誌「脳」(写真(2)左)が発刊された。 発行者は、精神衛生協会創立に寄与、救治会、日本精神病院協会などで活躍した小峯茂之(写真(2)右)であった。 その後「脳」は1940年(昭和15)に「精神と科学」と改題され、1944年(昭和19)まで続いた。 1929年(昭和4)第1回精神衛生国際会議に三宅 鑛一と植松七九郎が派遣され、六大陸代表者会(写真(3)、左端が三宅、中央がビアーズ)において三宅はアジア大陸の代表となった。 日本精神衛生協会の活動は脈々と続き、1951年(昭和26)発足の(財)日本精神衛生会に引き継がれた。 初代理事長は内村祐之(東大教授)、1964年(昭和39)二代目理事長になった秋元波留夫は種々刷新を図り、機関紙「精神衛生」を現在の「心と社会」に改題した。 日本精神衛生会は、1953年(昭和28)に世界精神連盟(WFMH)に加盟し、翌年関係7団体により「日本精神衛生連盟」(JFMH)が結成された。 一時理事長は菅又淳に代わり秋元は会長になったが、その後会長と理事長を兼任するようになった秋元の尽力で1986年(昭和61)から「日本精神保健会議」が毎年朝日ホールで開催されるようになった。 写真(4)は、1989年(昭和64)第3回日本精神保健会議の盛況の風景である。 1993年(平成5)島薗安雄が委員長となり世界精神保健会議がわが国(幕張)で初めて開催された。 その後、日本精神衛生会の理事長は島薗安雄、加藤伸勝、原田憲一、さらに現在の広瀬徹也へと引き継がれた。

(今回もすべて「図説・日本の精神保健運動の歩み」から借用した。関係者に厚く御礼申し上げます。編者:評議員・松下昌雄)

[写真1] 三宅 鑛 一(1925年)

三宅 鑛 一三宅鑛一 (1876-1954) (「三宅鑛一博士事跡」より)
救治会創立から主事として会の実務を担当し、1929年から7年間理事長をつとめる。精神衛生協会会長(1931年創立から1943年統合まで)

[写真2] 左:雑誌「脳」/右:小峯茂之

 左:雑誌「脳」/右:小峯茂之

[写真3] 六大陸代表者会

六大陸代表者会

[写真4] 第3回日本精神保健会議の盛況の風景(1989年)

 1989 年(昭和 64 )第3回日本精神保健会議(有楽町朝日ホール)満員の聴衆

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