公益社団法人 日本精神神経学会

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齋藤正彦先生に「認知症」(関わり)を訊く

更新日時:2015年3月13日
齋藤 正彦 先生
都立松沢病院
※所属は掲載日のものです
認知症のかかわりの上で支援者にとってのポイントは何か、また、とくに認知症のケアに必要な資質は何かお伺いしました。(掲載日:2015年2月20日)

①今までに出会った患者さんとの対話の中で、印象に残っているエピソードはありますか?

1991年頃に、認知症(当時の呼称は痴呆症)専門外来に、お一人で来院された70代後半の男性で、「自分はアルツハイマー病ではないか?」と、自ら尋ねられた患者さん(以下、Aさん)がいらっしゃいました。Aさんは検査も希望され、検査結果もご自身への通知を望まれました。当時はCTを撮っても確定的な診断とは言えない状況ではありましたが、確かに軽いアルツハイマーの可能性が高い結果でした。

この当時にして、Aさんの発言はとても珍しいものでした。認知症診療の場合は、患者さん自らの意思ではなくご家族(あるいは行政の担当者)の希望で受診し、診断もご家族に説明するという場合が今でも多く見られます。

私はこのAさんの診察をきっかけに、患者さんとご家族とは別である、ということを再認識しました。 Aさんは学校の成績といった意味ではなく、人生知において知的レベルの高い方でした。 「見当識障害」は患者さんが迷子になったことを契機に、ご家族が気付く場合が多いですが、Aさんは「時間の長さがわからなくなった」という発言をされました。 具体的には、以前はできていたけれども出来なくなったこととして、次のような違和感をお話されていました。
・目的を持った行動をやり遂げるまでの時間が読めなくなった
・電車に乗り遅れることが増え、時計をしょっちゅう見るようになった
 場所、方角の見当識については、次のような話をなさいました。
・山の中にいると、時計を見てお日様の位置を確認しないと東西南北がわからなくなった
・南向きに進む時は、北を上にした地図を逆さまにして見ないと、地図と実際の山道が結びつかなくなった。

Aさんのお話から、「見当識障害」は周囲の人が気づくより何年も前から起こっており、患者さんが症状に悩んでいることを知りました。 Aさんは、当時まだ日本で始まったばかりであった「回想法」(心理療法の1つ)のグループワークにも参加してくれました。「回想法」でテーマにすることと言えば、昔の遊びなど、懐かしくどちらかというと楽しかった経験を話し合うのが通例です。

しかし、ある時、来週のテーマは何にするかを相談した際、Aさんが「物忘れ」という提案をされました。予想していない回答に、私たちはどうしたものか当惑しましたが、何度も回を重ね、なじみのできたグループだったので、これを取り上げることに決めました。

実際に次の週、物忘れをテーマにグループワークを行ったところ、「周囲から、物忘れを指摘されても、自分が忘れたのかどうかさえはっきり分からない」という不気味な感覚を皆さんが話され、沈んだ雰囲気にもなりました。会が終わりかけたころ、何も忘れられない人生もそれまた大変ですよね」という患者さん(Bさん)の言葉にみんながうなずき、静かに会が終わりそうになりました。ところが、その時、グループに入っていた若い臨床心理士の「皆さんのように達観できると、アルツハイマー病になっても、立派に生きていけますね」という何気なく発せられた一言で一座が再び静まり返りました。その場の空気を溶かしたのは、「達観ではなく、諦観です。だってしょうがないでしょう?治らないのだから。」というAさんの静かな一言でした。

このグループは、その後、回を重ね、メンバーが少しずつ入れ替わり、結局250回を越えました。初めは一人で参加していたAさんには、やがて奥様が付き添うようになり、その奥様も心筋梗塞で急逝され、最後は、娘さんが付き添うようになりました。『認知症の人』とか、『アルツハイマー病の患者さん』という人がいるのではなく、Aさんがアルツハイマー病になった、Bさんが血管障害の結果認知症になった、というだけで、AさんはAさん、BさんはBさんであり続けるという精神科医として当たり前のことは、認知症の治療においても少しも変わらないということを教えてくれたのは、こうした患者さんたちとのコミュニケーションでした。

②周囲の人が認知症の患者さんをサポートする上でのポイントを教えてください。

家族が介護する場合は、正しい介護を目指さないことです。何が正しいかなど誰にも分かりません。「母のためには、ショートステイを使った方がいいのでしょうか、行きたくないなら家に居たほうがよいのでしょうか?」といったご質問を受けたとき、私は、「お母さんにとってよいかどうかはさておいて、あなたにとってはどうですか?」と質問します。娘さんに休みが必要だ、ということはショートステイを利用する理由として十分立派なものです。家族全体の平均点が合格ラインを超えることが重要なのであって、介護される人だけ満点、その他の家族は30点といった生活は長続きしません。教科書のような正しい介護ではなく、楽な生活を目指すべきだとお話します。

もう一つは、自信満々な医療や福祉の専門家の自慢話を信じるなということです。医師が長く診察するのは、うまく行った事例だけです。アドバイスが無効だった患者さんは通院しなくなるからです。結果として、うまく行った患者ばかりが残り、反省の無い医師は自分の患者は皆うまく行っているという妄想に陥るのです。

③精神科の医師が特に認知症のケアで留意していることはありますか?

認知症に関する政策的な議論で問題になるのは、いつも、認知症の患者さんをどうケアするかという問題です。言い換えるなら、これまで、認知症の患者さんは常に、ケアされる客体としてしか認識されていませんでした。しかし、医師として患者さんに寄り添っていれば、どんなに病状が進行しても、人間は最後まで生きる主体であるということが分かるはずです。精神に障害を持つ人を生きる主体として尊重することは、あらゆる精神医療の基本だと私は思います。この基本は、認知症の患者さんについても少しも変わりません。同様に、ご家族も生きる主体であることに変わりなく、『○○さんの旦那様』、『娘さん、息子さん』、『お嫁さん』といった捕らえ方では、介護者の心の支援もできないだろうと思います。

MRIの統計学の解釈や心理検査のカットオフポイントをもとにして認知症を診断するだけなら、専門家でなくてもコンピュータでも出来ます。ところが、こういう検査所見依存で診断を決めてしまう医師が少なくないのです。精神医療の基本は、患者さんの声に耳を傾けることです。患者さんはいつも、合理的に的確に自分の悩みを表出するわけではありません。だからこそ、患者さんのそばにいて、その声を拾い続ける誠実な努力が大切だと私は思います。私たちは認知症を治せないし、進行をとめることもできないけれど、逃げ出さずに患者さんのそばに居続ける、患者さんが助けを求めたいと思うときにいつも患者さんの心のそばにいるということの重要性を忘れないようにしたいと思います。

④先生が認知症を専門とすることになったきっかけやこれまでの歩みを教えてください。

認知症を専門とすることになったきっかけは、認知症病棟に異動を命じられたから、という理由であり、あまり前向きなものではありませんでした。しかし、神様がお決めになったことには逆らわないという主義なので、松沢病院の認知症病棟で頑張ることになりました。元・北海道医療大学の教授で、東日本大震災の後、南三陸町に住み込みで支援を続けている社会福祉が専門の伊藤淑子さんとは、松沢の認知症病棟での仕事を通じて、多くのことを学びました。東京大学の精神医学教室で松下正明先生の薫陶を得たこと、松下先生のご指導の下で、学生時代から知り合いだった現・上智大学の黒川由紀子教授や、博士論文を指導した現・東京学芸大学の松田修准教授と一緒に仕事ができたことは、認知症の患者さんを生きる主体として支援するという現在の私の診療のスタイルを作るうえで非常に重要だったと思います。

私は、松沢病院の認知症病棟担当医となった1988年以降、認知症の患者さんばかり診察してきましたが、2012年に松沢病院に戻って、統合失調症の患者さんの診察をするようになり、精神医療の基本は、認知症でも統合失調症でも全く変わりがないということに気づきました。精神科医は、治らない病気を抱えた人を支えなければなりません。抗精神病薬の効果、抗認知症薬の効果にエビデンス(※)がある、と声高に言ってみても、患者さんの人生、家族の生活が大きく変わったというエビデンス(※)はありません。こうした事実の前に、奢らず、謙虚に、誠実に診療を続けなければ行けないし、松沢病院で学ぶ若い先生方にもこのことを伝えたいと思っています。
(※エビデンス:科学的に有用という根拠があるということ)

⑤今後の認知症についてどのように考えていますか?

認知症でも統合失調症でも依存症でも、多くの精神疾患において、患者さんが直面する困難さを突き詰めれば、自我がゆらぐことだと思います。したがって、認知症の精神医療に特別な方法があるのではなく、精神科医は、自分たちが他の精神疾患の患者に対して磨いてきた基本的な方法は共通だという自信を持って、高齢の患者さんに向き合うべきだと思います。問題行動や精神症状を制圧するのが精神医療の役割といわれるようではあまりに悲しい。

アルツハイマー病は決して単一な疾患ではありえないと思います。今後、いわゆる根治薬や根治的な治療法が開発されても、それは、ある特定のアルツハイマーに効果があるに過ぎず、認知症全体の有病率を劇的に下げるとは思えません。すべての人が抱える、老いと死という抗えない運命に、どのように適応していくかという視点で、精神科医が果たすべき役割は大きいと思っています。

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