孔子の儒教と老子の教え。これは東洋の2大哲学潮流であるが、それが日本人の考え方、ひいては精神療法を行う場合に大いに関係しているという話である。
儒教が礼や仁を重んじ、「社会的にきちんとせよ」と諭すのに対し、老子は「大自然に立ち返れ」と教える。儒教には努力、道徳、「頑張れ!」という強力性ニュアンスが強く、学如不及(いつも自分は十分でないという気持ちで勉強せよ)などという言葉が代表的である。老子は「突っ張ったって、しょせん大したことないよ」と、消極的かつ弱力ニュアンスで、上善如水(水のような存在が最善)、和光同塵(光輝かず、塵のように居るべき)などの言葉で知られる。
両者は実に対照的で、ライバルと目されるが、実は東洋の民は場面によって両者をうまく使い分けている。儒教は「うまく行っている時」、老子は「失敗した時」に持ち出される傾向があり、使い分けが一種の適応パターンとなっている。たとえば昇進したら、儒教的に「会社のため、仲間のため、つらくても頑張るぞ!」と張り切るが、上司にひどく叱責されたら、老子的に「叱られたっていいさ。どうなるものでもないよ。」と開き直るのが、アジアの知恵である。もっともこれが逆に働くとまずい。上司に叱られた状況で過度に儒教的に考えると、「努力が足りない。ダメだ」と考えかねないし、出世のチャンスがある時に老子的な考えをもってくると、「偉くなったって、どうってことない」と、もう一つダメ押しが足らなくなる。したがって、適応を論じ、感情コントロールが必要な場面では、儒教、老子をどう使い分けるかが大事ではないかと思われる。この知恵こそ今の日本人に必要であろう。
精神科治療についても、この視点は大切に違いない。日本では別に教養人でなくても、老若男女を問わずこの両哲学が染みついていて、精神療法的なアプローチをしようとする時には、その考え方が(患者、治療者双方に)しばしば顔を出す。たとえば、認知療法で考えの歪みを扱おうとすると、「自分の考えが正しくないから、良くないのですね」と儒教的になりがちである。第一、治療者そのものを孔子のような権威と間違えているのではないかと感じられることもある。逆に「役に立たないくらいでちょうど良い」と、引きこもりの言い訳論理として老子の言葉が使われる場合もある。ただ必ずしも、これらは困ったことだ、とは思わない。このような東洋哲学が顔を出した時にこそ、日本人の患者は生き生きと感じられるからである。特に認知療法など西欧的な精神療法は「なぜそうなのか」「もしそうならどうなるか」という自問を繰り返し、合理的な真実に迫ろうとする「ソクラテス的質問」を方法論としているが、これは典型的な西欧哲学の論理であって、日本人はこれを多少誤解してしまうことがある。東洋の哲学は論理を超えた「教え」のニュアンスがある分、合理的に考えよと言われても、考えが自由な形で出てきにくいのである。ただもちろん、西欧、東洋の考えが決定的に異なるものではない。両者を融合し、老子と孔子の哲学を使い分ける。それこそが今後の精神療法場面の課題ではないかと感じられる。













