昨今、正義を正面から問い直す姿勢が若い人たちに受け入れられている。
精神科病院にとって正義とは何か。問われるまでもなく、受診患者とその家族を真の受益者とすることであろう。
これは青臭い理想主義を述べているのではない。
病院組織が内外の危機によって揺るがされたとき、何を残して何を捨て、どこに向かうのかという問題、すなわち危機管理の中心に置くべき原理である。
以下、この原理をとらえなおすために、精神科病院を巡る歴史的経緯を少し振り返ってみたい。
『坂の上の雲』の最終章に近い「宮古島」の章に次のような挿話がある。
バルチック艦隊の艦影を見たという民間人の情報を、宮古島の協力者5名が石垣島の電信所まで運ぶことになった。
海上170kmを手漕ぎのボートで15時間かけて渡らなければならない。
5名は篤志でこれを行い、情報を中央に伝達したというのである。司馬遼太郎はこの事実を「国家の重さに対する無邪気な随順心をもった時代」の話とした。
あくまで私の個人的歴史認識なのだが、戦前期の精神科病院は、上記のような「国家」のための施設として存在したと考えている。
当時、癲狂院や脳病院と呼ばれていたものは、主務官庁である内務省のもと、医療よりも収容を第一義とした施設であったのではないか。
昭和13年に厚生省が内務省から独立したのちも「精神病」は内務省が管轄しつづけた。
昭和22年に同省が解体し、精神科病院は厚生省に移管された。ここではじめて、精神科病院は国民のための存在となったといえるだろう。
終戦後、新憲法のもとで労働運動が合法化され、昭和20年代末頃から病院労働者たちの待遇改善 要求が日の目を見ることとなった。
彼らもまた、踏まれることの痛みを知る人々だった。うねりは高度成長期の精神科病院を席巻した。
くりかえす争議を経て、労働者と経営者が半永続的な妥協点に至った病院もあったことだろう。
それは、精神科病院が収容施設として機能していた 時代の開設者の権益を認める代わりに労働者の待遇の安定を保証する、
という内容を含んでいたのではないか。
非公式で、ときとして暗黙の、封建的関係にも似た合意だったかも知れないが、もとより、
良い労働環境がなければ良い治療環境は得られない。のちに問題を残しながらも、
不毛な闘争をくりかえす愚を避けたという点だけは評価に値する。
この時代、精神科病院の受益者として、開設関係者に病院労働者が加わった。
その後のことは、まだ十分な歴史になっていない。
以上は、地方都市に戦前から続く精神科病院の現場で30年間働いてきた当事者である私が、
肌で感じてきた現場の空気、その違和感のようなものを、自分の感覚にしたがって解釈したものである。
実際、このような仮説を立てなければ説明できないような不思議な現象を、特に人事において、何度も目の当たりにしてきた。
20数年前、統合失調症の研究で高名な精神科医師に会った。
駆け出しの私はその医師を、ひそかに師と仰いでいた。なぜ先生は統合失調症を研究されているのですか、という私の稚拙な質問に師は答えた。
「統合失調症患者に食わせてもらってますから」と。
このときのやりとりが、その後の私の職業倫理の根底にあり、私に今この文章を書かせている。
私には、他の仕事をする才覚も意志もない。
あるべき受益者のもとに正当な利益が還元されるために身の丈いっぱい働く。私の仕事は、それ以上でも以下でもない。
健康が与えられている限り、現場に身を置きつづけることは天命であると任じている。













